豊かさの条件
暉峻淑子(てるおか いつこ) 著
発行:岩波新書

 本書は、2003年5月に刊行された。著者が前書きで記しているように本書は、およそ15年前の1989年に刊行された「豊かさとは何か」の続編となっている。
 1989年といえば、バブル経済の真っ最中、日本の地価総額はアメリカの国土を2つ買えるほどに高騰していた。庶民の住宅は「ますます遠く、高く、狭く(遠・高・狭)」なり、勤労者は遠距離通勤と長時間労働に疲れ果てていた。
 そんなバブル期の1993年、筆者はイギリスとヨーロッパの住宅と地域開発を視察する機会を得た。旅行後にまとめられた視察記に筆者は、70年を経た田園都市レッチワースの黄昏時、二人の子供とボール蹴りをして遊ぶ父と子を見て、「時間がゆったりと、豊かに流れていた。あの人間を豊かにする、ゆったりとした時間の流れのことを考えずにはいられない」と書いた。暉岡氏の前作「豊かさとは何か」の答えを筆者は「人間を豊かにする、ゆったりとした時間の流れ」ではないかと考えていたからであろう。
 バブル期を経て15年後に書かれた本書「豊かさの条件」は、今日、日本の社会が直面する企業倒産、フリーター(パラサイト)、ホームレスの増加を指摘し、「いま、日々の暮らしの中で聞こえてくるのは、音をたてて崩れ行く日本社会の、地底から噴出してくる不気味な地鳴りの音である」の警鐘から説きはじめられている。
 また、本書は、旧ユーゴスラビアの内戦の実相を暴いている。本書が書かれた1年後の今日、我々はイラク戦争とアメリカに追随する日本の今を重ね合わせて慄然とする。我々多くの日本人は侵略者セルビア、周辺の国家を犠牲者とする図式を信じ込まされていたが、実はそれが、国際的な世論操作により作られたものであったことを知る。そして、戦禍のボスニアと震災都市神戸の市民の連帯と相互援助の活動の中に著者暉岡氏は、「豊かさの条件」を見出そうとしている。
 今日、国際世論の操作は、それを請け負う民間の広告会社が存在するほどに日常化している。内戦と貧困とは無縁の「豊かな善人」は「可愛そう」「助けてあげたい」というエゴイスティックな願望を満したいとウズウズしている。こうした「善人」につけ込むためには「勧善懲悪」のわかりやすい図式が必要であり、「善人」たちも潜在意識の中で、「悪玉」を求めているのだ。こうした「悪玉」と「被害者」作りの世論操作は、最近のイラクにおいては「豊かな日本」という国家をも巻込むほどに大規模化し、より巧妙化している。
 今日巧妙化した世論操作がまかり通る現実の中で、切に求められるのは正しい情報であろう。そして、国家も既成のマスコミも侵されているとするならば、正しい情報は信義で結ばれた国際的な市民ネットワークにしか求められないだろう。すなわち、今日、国際的な市民の連帯が強く求められているのである。それは、善意を「与える」「与えられる」関係から「相互を思いやる」という「豊かな市民性の発露」による連帯であり、国家や民族、宗教をも超えて次世代に受け渡される人類の財産となるべきものであろう。
 美しく老いることは難しい。
 筆者もそろそろ「仕事人生」の総決算をすべき年齢を迎えつつある。本稿を書くにあたり引きずり出した先出の拙稿視察記の一文が気になっている。それは、西ドイツの財界首脳が語ったという「社会人には3つの責任がある。家庭を守ること、地域社会に奉仕すること、そして働くこと。日本人は働くという社会人としての責任の1つは果たしているが、他の2つの責任は果たしていない」という一文である。
 学生の頃、リバイバル上映されていた「緑の館」を見て、オードリーの虜になった。以来、彼女の映画をことごとく見たと思う。晩年のオードリーは癌に冒されながらもユニセフ親善大使として世界の貧困地帯を駆け回わり、戦禍と飢餓に苦しむ子供達の救済を訴えつづけた。彼女は逝ってしまったが、その遺志はオードリー・ヘップバーン基金として今も生き続けている。
 昭和7年、5・15事件で「話せばわかる」の名言を残し、凶弾に倒れた犬飼首相の長女であり作家でもある犬飼道子さんは、内戦の続く貧困地域の難民救済に駆け回り、資財の全てを基金に提供してしまったという。今なお、救済活動を続ける彼女は、東京の老人ホームに暮らしている。強く美しい老後である。
 いま、泥沼化するイラク情勢、果てしない憎しみの連鎖が続くパレスチナ。事態はより深刻になっているようである。しかし信じたい。「豊かな時間の流れ」と「豊かな市民性の発露」が、豊かな人類の明日を約束してくれるにちがいないと。 
石井 桂治((株)アール・アイ・エー 名古屋支社)/2004.12

 

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