遥かなるケンブリッジ
藤原正彦(ふじわら まさひこ) 著
発行:新潮文庫

  「国家の品格」(新潮文庫新書)は、大ベストセラーである。
著者藤原氏は、日本に蔓延する「当世流」の国際化社会への対応を徹底的に批判する。国際人育成のための小学生への英語教育導入に対して国語教育絶対論を展開し、グローバリズムの名の下に導入される新会計基準はアメリカ経済の世界経済侵略であると断じる。人間の思考は母語でなされており、国語教育の強化こそが思考能力を高め、情緒豊かな品格ある個性を育てると主張する。国語はその国の文化である。文化の薫風なき英語スピーカーは国際人たりえない。日本という風土に育った文化(情緒)を身に着けた個性豊かな人間こそが真の国際人であり、国家の品格を体現しうる。要約すれば、以上が藤原氏のすべての著作を貫く骨子であろう。
筆者には、ある読書癖がある。読んで気に入った著者の著作は、すべて読むというものである。したがって、「国家の品格」を手始めに、藤原氏の著作はすべて読むことになった(もちろん費用の関係から文庫本に限られるが・・・)。また、藤原氏が、新田次郎氏の次男であることも筆者の読書癖を大いに刺激した。新田次郎氏はかって筆者の読書癖を満足させてくれた作家の一人なのである。書店で一番目の着くベストセラーコーナーに置かれた「国家の品格」を手にとって、普通ならぱらぱらと目次を追い立ち去るのだが、著者紹介に新田次郎の名を目にし「国家の品格」を買ってしまったのである。
「国家の品格」はこの書評を読む多くの読者がすでに読んでおられることと思う。そして藤原氏が数学者であり、アメリカの名門コロラド大学で教鞭をとり、学生の答案の英語添削までした英語の達人であることも存知であろう。だからこそ、「英語が話せないと・・・」という「駅前留学」のキャッチフレーズに慄く英語コンプレックスの筆者達中高年を勇気付けてくれ、さらに、昨今の学力低下著しい「ゆとり教育」に嘆息する中高年は、論理の権化と信じて疑わぬ「数学者」が謳う「国語教育絶対論」の新鮮な論調に安心して頷いてしまうのだろう。
しからば、なぜ「遥かなるケンブリッジ」なのか。
一つには、上記のごとく「国家の品格」はすでに、多くの読者が読了されているであろうこと。今一つ、こちらのほうが重要なのであるが、筆者も含めイギリスを旅したことのある日本人の多くが、一様に「食べ物がまずい」「無愛想」という印象を持っていることである。少なくとも筆者はこの印象を拭えず、せいぜい5日間のイギリス滞在に過ぎなかったが、イギリスからベルギー、フランスへ渡って「食べ物がうまい」「人間が明るい」、なぜイギリス人はあんなに「尊大」なのだという想いに縛られていた。「遥かなるケンブリッジ」で藤原氏は、イギリスに対する筆者の15年来の誤解を払拭してくれたのである。
イギリスは「紳士」の国である。紳士は他人の揚げ足を取ったり、揶揄したりすることをせず「忖度(そんたく)」する。それは「騎士道」精神に基づいている。ケンブリッジの学者たちは、ノーベル賞学者ですら袖の擦り切れた古いジャケットを着続けるほど質素で、自虐的なまでにフェアー精神を至上とする紳士である。常に議論し他者を押しのけるアメリカの学者とは大いに違う。むしろ一昔前のつつましく、弱い者いじめを嫌い、卑怯を恥じた「武士道」精神の残っていた日本に通じるという。
藤原氏は記している。「激しく論陣を張るなどということはアメリカ的として軽蔑された。日本に似て、婉曲やユーモア表現を交え、相手の気持ちを忖度したりすることが紳士の態度とされた。改善になるか改悪になるかよくわからない改革に身をやつすより、しきたりや伝統に身を任せ穏やかな心でいたい・・・・かくも保守的な人々からなるケンブリッジ大学が、戦後だけで40人以上のノーベル賞学者を輩出していることは興味深い。私は、イギリスを経験してはじめてアメリカの呪縛から解放された」
「遥かなるケンブリッジ」は、サッチャー改革の只中にあった1987年8月から一年間の家族同伴でのイギリス滞在記である。一方、藤原氏の処女作「若き数学者のアメリカ」は独身時代の著作である。この書評を書くに当たって筆者は、子育て世代だった藤原氏の「遥かなる(憧れの)」ケンブリッジを、現在の日本と対比させつつ読でみた。そして「遥かなる(希望の光)」を読み取ることができたように思う。
GDPが日本の半分に過ぎないイギリスの国際社会における存在感は、日本の比ではない。第一次・第二次世界大戦で、パブリック・スクールを経てオックスフォードやケンブリッジを卒業したエリートの戦死率が最も高かったという事実も興味深い。国難あるときは真っ先に駆けつけ、自己を投げ打って弱者を助けようとする騎士道精神の現れであろう。それは、満州生まれの藤原氏(当時2歳)の苦難の逃避行を尻目に、守るべき民間人を押しのけ、真っ先に逃げ出した関東軍の醜悪な「エリート」と画然とした対比をなしている。
「いじめ」「虐待」「無関心」「格差の拡大」「ニート」「拝金主義」、グローバリズムの名の下に押し付けられる改革。日本にも、つい最近までそこにあった「他者を思いやる心」「エリートの矜持」などが失われつつある。多くの人達が、現在日本が進みつつある方向に「違和感」を感じているのだろう。だからこそ、それに警鐘を鳴らした「国家の品格」はベストセラーになったのだと思う。
こうした文脈からすれば、「遥かなるケンブリッジ」はシャイな紳士の国イギリスを論じることにより日本の進むべき一つの方向を示し、さらに現在世界を席巻しようとしているグローバリズム(アメリカの都合)に対する批判の書でもあるともいえるだろう。

 

石井 桂治((株)アール・アイ・エー 名古屋支社)/ 2006.12

 

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