江戸切絵図散歩
池波正太郎 著
発行:新潮文庫
 いま、日本橋界隈が注目されている(注)。官主導の高速道路整備に対し、まちづくりの観点から住民が異議を唱え、歴史ある下町の再生を目指そうとしている。

 かつて、司馬遼太郎が「最後の江戸っ子」と賞賛した池波正太郎は「出稼ぎの役人が、日本橋の上へ高速道路で蓋をしてしまった・・・・・いかになんでもひどすぎる」と憤慨し、「東京オリンピックを境に、このような<悪行>が当然のものとなってしまった」と嘆いたが、半世紀を経て、下町の歴史的景観を破壊して省みなかった<悪行>に対し、住民が重い口を開き始めたのである。

 1999年1月、東急百貨店日本橋店(旧「白木屋」)が閉店した。白木屋は、1662年江戸初期の創業である。こうして、336年の歴史を誇った「下町」の象徴は消滅した。

 もともと江戸には、城下町を形成する充分な平地がなかった。1603年徳川幕府を開いた家康は、江戸城近くまで入り込んでいた海岸線を埋め立て、町づくりを行った。こうして開かれた江戸城東部の低地一帯、浅草、上野、日本橋、銀座などは、丘陵地であった「山手」に対して「下町」と呼称された。

 本来「江戸っ子」とは、この下町に生れ育った人のことをいった。すなわち江戸時代からの繁華街であった下町は、庶民の生活の場であった。正確を期すなら、下町は庶民の住む場所であったがゆえに、その生活の便に供するための商家や食べ物屋が立地し、繁華街が形成されていったと言うべきだろう。

 400年後の東京日本橋、高架の高速道路が川を覆い、オフィスビルが犇き、庶民の生活の臭いがない。白木屋の終焉は、人が住まない町が繁華街でありつづけることができない証左ではないだろうか。

 本書は、「江戸の下町」を愛しつづけた池波正太郎の数多くの人気小説の源泉ともなったといわれている。しかし、まちづくりの観点からみると、当時世界的な大都市であった「江戸」を知る貴重な資料である。そして今日、藤沢周平が「江戸切絵図の世界と現在を結ぶ旧跡はあちこに残っていて・・・・・・歴史は簡単に消滅するようなやわなものではない」(「ふるさとへ廻る六部は」)という、東京の歴史的な町並みの再生を考える上でも、基礎的資料とのなるものであるといえる。

注:例えばhttp://www.mlit.go.jp/road/yuryo/arikata/arikata.html
石井 桂治((株)アール・アイ・エー 名古屋支社)/2003.12

 

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