「公共の福祉」について考える 

 最近、愛知県のある都市の「中心地市街地再生フォーラム」で、事例紹介を依頼された。そこで私は、平成18年7月に竣工した知多半田駅前地区市街地再開発事業を紹介した。さらに、その地区の再生への助言を求められていたから

(1)かつての成功ビジネスモデルからの脱却
・古い世代の経営者の退場、2代目、3代目への権限の委譲

(2)行政・権利者・参加組合員・コンサルの信頼関係
・「民・行・コンきち」権利者・行政・コンサルが気違いになって、事業達成を目指す

(3)外部資本に過度に依存しない
・権利者自らが行動する、権利者・行政・コンサルがともに汗を流す

(4)地区の優位性(資源)を生かす
・歴史、由緒ある城下町、戦災復興で基盤整備、建物整備も完了しおり新たな公共施設整備・建物整備等過大な投資が不要であり、若い力が発揮できる素地がある

の4点を提言した。

 私を含め4人の事例紹介者の中で、最後の事例紹介者は「事例紹介」ではなく「自社紹介」を行った。それは「異彩」を放っていた。その会社は「日本で唯一権利者の側に立って、権利者の利益を最大に確保限にために、強者(行政、都市機構、ゼネコン等)と交渉し、権利者利益を極大化することを社是するコンサル」ということであった。
 まちづくりのパートナーであるべき行政等と権利者を、対立的に強者と弱者と捉える考え方に違和感を覚えた。そして「権利者(個人)の利益を極大化」したとき「公共の福祉」はどうなるのだろうと疑問を感じた。都市計画法、都市再開発法、建築基準法のいずれにも第一条・目的に「・・・もって公共の福祉に寄与(増進に資する)・・・」と記されている。
 ローマ人は、インフラは「人間が人間らしい生活をおくるために必要な事業」と考えていた。2千年の昔から「多くの人間が人間らしく生活する」ためには少数の人間のエゴは一定程度制限されることは自明とされていたのだ。「公共の福祉」の実現とは多数の利益と個の利益の調和的な止揚を意味している。それが「社会正義」の実践ということである。
 私は自分の職能を「社会正義のために」という言葉を念頭に、常に技能の研鑽に励み、豊かなまちづくり(社会貢献)を実践するものと考えてきた。だが、30年の実務経験から、「だまされる奴が悪い」という悪しき問屋根性や粗悪な「MADE IN JAPAN」の地場産品で財を成した古い体質の残る街では、公共施設整備もままならず、ましてや共同・協調を旨とする再開発も実現しないという事例も多く見てきた。目先の利害で、次の世代のための投資をかえりみようとしないのだ。街が朽ち、世代が変わる必要があるだろう。
 今や、日本人の「目と舌」は世界一肥えている。誕生日・買物動向・趣味・嗜好等を細かく把握し、顧客を「顔なじみ化」する不断の努力が必要である。なじみの店で買い物し、飲み食いすることの心地よさ。それこそ「顔見知りを相手に、ごまかしの利かない、まっとうな商売」(池波正太郎「江戸切絵図」)である。「まっとうな商売」をするための真摯な努力と投資を怠らない新しい世代の登場を待つしかないだろう。

 上記は、事例紹介を依頼された街のことを言っているのではない。
「公共福祉」の了解の上に立って公共の財は投下される。ある街で「特定の権利者利益の最大化」の行き着く先が、行政の「棄民」ならぬ「棄街」にならぬよう危惧しているのである。

石井 桂治((株)アール・アイ・エー 名古屋支社)/2007.5

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